たのくろ、を思う。
たのくろというのは、田んぼと田んぼを区切る盛り上がった場所、畦のことを言う。
それが田んぼという場の輪郭でもあり所在を表し、広い場所では鏡の縁のように、棚田のような場所では、等高線を描き、美しい風景にもなる。
田んぼの機能としては、雨水による土の流失を防ぎ、水を貯めるダムとして機能する。人が移動する道でもある。
通常、たのくろ、畦は耕すことなく自然のままに生える草で覆われている。
その草は定期的に刈り取られ、かつては堆肥の材料、農耕馬、牛の餌に利用された。
今、その畦が大きく変化している。
近代化、機械化、作物の市場化、現代の農業以前では、田畑と畦、たのくろは共存共犯関係にあり、田畑が作物の生産の場であれば、畦はその作物の生産を支える肥料の供給源であり、さらに機械化以前の農耕家畜の餌の供給源であった。死ぬも生きるも共にあった。
現在は肥料はグローバルな鉱物資源の流通に変わり、トラクターをはじめとする農業機械のエネルギーは主に石油、そして今後は電気、水素?に変わる。
田畑と畦の共存、循環関係は断たれ、生産性という視点から田んぼ、畑、というのは主にその耕作可能な部分のみを指し、畦は土木的な意味において存在するただの場所、所有権の目印、空の場所になった。
事実、現代農業の前線では効率を求め圃場整備が進み、機械化の必要から田畑の形状は直線的な形になり、自然の水系からも離脱し、管理可能なものになる。畦は地形そのものを変化させることで直線的になり、かつ生産効率のない場所であるために最小面積になった。
この田畑と畦の関係の変化は、社会に大きな変化をもたらした。そしてそれは社会の変化のみならず、人間の労働、思考、想像力も変化させ、人間と自然の関係性も変化した。
その変化は経済性を高め、労働負担を軽減し、食料を効率的に供給することには成功したが、かつてあった田畑と畦の循環の代わりに、食糧生産がエネルギーのグローバルなシステムに接続された。そして農耕者のそれぞれの生活空間である地域の自然との直接的な関わりが薄れ、畦の草たち、農耕家畜たち、さらに畦の住人である小さな生き物、堆肥、土壌に隠れ住む微生物とのつながりを失い、その生活空間である地域の地形、大地そのもの、水系からも離れ、農耕者たちを孤立化させた。
ここで思うのは、次の時代を迎えるに当たり、次の世代にこの大地をリレーするに当たり、今一度、田畑と畦の共存共生共犯、濃い繋がり、循環を復活させることだ。
その一歩により、やがて、生活空間、里山、とその周囲に広がる自然、野生との交流を取り戻し、農耕者が本来依存するべき大地へとしっかりと立つことを取り戻す。
その一歩は小さい。畦の草の循環、再利用。これだけだ。とても小さい。だけれども、とてもシンプルだ。やろうと思えばできる。畦の草を刈り、畑に敷く。空き地に積む。それだけでいい。朝起きて、鎌を手に朝露に濡れた草を刈る。牛にあげよう。畑に敷こう。運んで積もう。
それがたのくろ農法であり、次の世代に伝えたいたった一つの、ささやかな作業だ。都会でもできるかもしれない。公園の、空き地の、道端の雑草をひとつかみ持ち去ろう。その草を毎日積み重ねる。やがて土になりなんらかの芽がでるかもしれない。もうそういう余地もないか。
たのくろとは、現代農業の余白である。最小化された余白。意味のない空間だ。たのくろばなし、といえば井戸端会議と同じように、ほとんど大切ではない世間ばなし。今、たのくろから人が消えようとしている。人の声が消えようとしている。生きものが、草が消えようとしている。防草シート、ソーラーパネルで覆われてしまう。もう一度、せめて人が座り、すれ違い、おしゃべりのできる場所にしよう。
意味のない、簡単でシンプル、でも金にならないから体が動かない、でもほんとうはやりたいこと、いつか声にしたいことというものもあるもんだ。いまやったらいい、またやったらいい。さ、やろう。
道のべの木槿は馬にくはれけり 芭蕉
自分の数少ない覚えている俳句だけど、最高じゃないですか。
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