高森の幼稚園「おてんとさん」の子どもたちと作った堆肥場。
畑の草だとか、冬の落ち葉を集めて、畑の栄養、堆肥を作っています。毎回少しずつ増えて、今回は収穫を終えたスナップエンドウを投入。
積み重ねはじめて半年ほど。どこからともなく増殖した微生物がせっせと分解しています。
冬の落ち葉も随分粉々に。そして落ち葉と落ち葉のすき間にはコロコロとミミズの糞。いい栄養になるといいね。
コロナと堆肥化。
ぼくたちは堆肥化させる。
堆肥とは畑の栄養、肥料のこと。牛糞、鶏糞、豚糞、そして草、籾殻、落ち葉、身の回りの植物、有機質を積み重ね、適度な水分で発酵させたもの。分解したもの。
畑の作業では畑の表面で野菜を生産する一方、いつもその内部で、畑の土を堆肥化させている。畑の土に野菜の生産に適した必要な有機質を補充し、それを分解し、ふかふかの状態にする。ぼくたちはせっせと堆肥を運び込み、せっせと土の中に緑肥、雑草、野菜を鋤きこみ、微生物たちが分解し、発酵する。そしてそのふかふかの土を作る。
畑にとっての堆肥化は、人間の個体にとっては腸内の細菌のバランスを整えるようなものだろうか。農家は畑でも、自分の腹の中でも、分解し、堆肥化している。腹の中、腸、腸内環境の主役はぼくたちではなくて微生物。ぼくたちは腸の中で微生物を飼育し、育てている。生産と分解、堆肥化は分けられない輪のようなものだと思う。細胞、細菌、微生物の総体が自分だろう。
表面的な野菜の生産、人間の明るい社会活動の一方で、堆肥化ということに注目すれば、野菜を育てながら分解し、活動しながら死んで行く。分解する。僕たちの生体の細胞は数ヶ月で総入れ替え。表皮から、あるいはおしっこやウンコとして、どんどん老廃物を、自分の死体を排出する。そしてそれをまた堆肥化して、野菜を育てる。この堆肥化のプロセス、輪こそ農家の姿であり、ぼくの、無数の腸内細菌に生かされている、ぼくの個体としての輪郭だろう。
農家のぼくには数少ない地に足のついた言葉、それが堆肥化だ。ほぼ20年。それ以外のことは知らない。腐葉土を作り、堆肥を運び、畑を耕し、堆肥化する。それ以外に何も知らない。知ってはいるけれど、行動したのは堆肥化だけ。畑を堆肥化し、自分のはらを畑化し、堆肥化する。本当にあきれるが、堆肥化だけ。そして堆肥化とは死体を分解してふかふかにすること。それが土だろう。
今、コロナがあり、オリンピックがあり、政治があり、そして何より梅雨の本番。深呼吸の出番。野菜が無事に育つだろうか。畑が無事だろうか。コロナも、ワクチンも、オリンピックも堆肥化させよう。それ以外の畑、ウイルスの行き場、ワクチンの行き場、情報の行き場を知らないし、畑では堆肥化する以外にすることはない。
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