九月尽オクラは暦のように立ち
ファラオにも捧げたくなるオクラかな
今日は原野の草刈り。輪地切りです。
地区の区役なので全世帯参加。
赤牛が放牧されています。
葛のかづらが深い。早速体力消耗。
輪地切りとは地区の原野、採草地を野焼きするために、この季節に防火帯を作る作業です。道路や、隣接する林が野焼きの炎が燃え広がらないようにします。草の生長が止まるこの季節に行います。
刃が何枚もいる。
原野は集落と森の間にあり、入会地として共同利用されてきました。原野の草は牛の餌、茅葺き屋根の材料、畑の肥料、堆肥として利用されてきました。現在では一部が放牧地として利用されていますが、昔ほど利用されていません。場所によっては植林されたり、メガソーラーの発電所として利用され年々面積が減っているようです。
原野はかつては貴重な資源、エネルギーの生成場所、多様な生物の生存する場所でした。集落が主に人間の暮らしの場とすれば、原野は人間と野生の共有の場、緩衝地帯、人間と野生の接点です。単なる接点ではなくて、そこには資源、エネルギーの生産があり、人間、微生物、植物、動物の共生の場です。
共同体を空間として有機体に見立てると、もしかしたら原野は内臓、腸のような場所かもしれません。えんえんと続き、なだらかに、細やかな繊毛絨毛のような多様な植物が育ち、風になびき、そこでは薬草も生え、昆虫が鳴き、動物が住み、それらの活動によって人間の生活の資源が生産されます。野生と集落の緩衝地帯として様々な危険から、人間を守りもします。
人間は有機的な個体として存在しますが、数億、数兆の腸内の細菌、微生物群と共生しています。その多くは内臓フローラとして腸に住んでいます。そして日々、人間同士、人間と環境の中でそれらのウイルス、細菌、ガス、息、声、を交換しています。その活動が人間の免疫力と密接な関係にあることが知られています。
それと同じことが原野で多様な生物の間で営まれてきた。そこに人間の生活が結びつき、千年の単位で人間と自然の共同の営みとして営まれてきました。人間の社会も数億、数兆の多様な生き物の活動と密接に、強く結びついて営まれてきたのだと思います。
今はその営みも縮小傾向です。できることなら皆、この営みを続けたい、新しい形で残したい。今日のような共同作業をすると、地域の人のそんな願いを全身で感じます。
人間の健康で言うならば、今日のような共同活動は、決して何かの病気の特効薬のような「武器」、「切り札」ではありません。原野は直接はお金になりません。集落にとっては生活の資源、エネルギー源、共同作業の場。全体として生活を支える、守りの場です。人でいう免疫力かも知れません。直接役には立たないように見えるけれど、こんなに広く気持ちのいい場所は他にはありません。誰のものでもない、人間だけのものでもない、みんなの場所はどこにもありません。原野、野焼きは体力の続く限り、多くの人、生き物、自然とともに、維持していきたいと思います。
昨日の続き、