地震二日目、朝8時過ぎ、消防に合流、捜索現場への召集があるかと緊張しました。地震の被害の大きさ、現場の過酷な状態は断片的でしたが伝わっていました。ヘリコプターや、緊急車両、自衛隊、消防、警察の車両が急増し、道路はいたるところで通行止め、通行規制が始まりました。避難物資が届き始めているものの、まだまだほとんど行き渡らない状態で、少ない水を皆で分けている状態でした。
副分団長、部長が本部会議から戻り、捜索現場を外れた13分団は、すぐさま、飲料水の確保のために湧き水を汲みに行きました。南阿蘇は湧水が豊富で、結果的にこのことが、この行動が自分たちに、大丈夫だ、そういう安心感をくれたと思います。
団員で手分けをし、使い古したあるだけのペットボトルを集め、さらに水の汲める容器、タンクを載せ、団員のトラックで近隣の地区、塩井社水源に向かいまいした。どの地区も建物、そして田畑の畦の被害が痛いほど多く、被害は広範囲だと感じました。水源には思ったほどの人影も無く、残念なことにそれは水源が枯れ、汲める水が無いのでした。そんなことがあるのか。ほんとうか。蘇陽は大丈夫、高千穂までいければ。消防団の間で、また地域でも人が集まれば、どこが通れる、ガソリンはどうする。様々な情報が交換されていました。池の川水源だ、水の出ている水源の情報を頼りに車を走らせました。水源に着くと何人かの人が車で、たくさんの容器に水を入れていました。これで水が手に入る。そしてここに来れば水は大丈夫。安心感が湧きました。消防では湧水で満杯にした容器を公民館に運びました。飲料水あります。張り紙を張ることができました。トイレの水は前日に他の団員により手配してあり、近くの川やため池、用水路から汲み、飲料水もある。ボクも500mlのペットボトルを一つ、リュックに入れました。
次の問題は苗の灌水でした。停電が続いており、断水になり、たくさんの苗にどのように水をあげるか、ぽっこわぱの拓とボクで、製材所の一昭さんに湧き水を汲ませて貰うように頼み、快く了承を得ました。タンクとポリ容器を集め、エンジンポンプを借りタンクを満タンに水を運びました。みな自分家族のこと、地区のこと、仲間のこと、同時に行動していました。タンクをぽっこに下ろし、ポリ容器をボクの畑に運びました。これで数日、2日か3日をしのぐ。そして動けば動くほど問題も出る、車のガソリン、ポンプの燃料を手に入れる、その道筋をつける必要になり、夕方、消防の3人で携行缶を積み込み山越えのルートを進みました。すれ違う緊急車両、大型重機、救急車、交通整理の警察官、南阿蘇を出ると西原、そして大津、菊陽。それぞれ被害がありましたが西原でガソリンを手に入れ、菊陽に寄り、携帯の電波がよくなり、広島の親戚に避難所にいる心配ナシの連絡を入れました。どの街、どの場所でも店は閉まっていました。そして夕方暗くなり数分間ボーっとしても阿蘇を遠くから眺めてみてもやはりすることは無く、帰ること、阿蘇に戻ることだけが自分たちのすることなのだとわかり、暗い山道を遠い山道をひたすら戻りました。疲労も感じましたが、ガソリン、どの道を行けばいいのか人づてにいろいろ情報がありましたが、阿蘇から抜け出る道を確認できたことは大きな成果だと思いました。
夜八時過ぎ分かれて小学校に戻ると、避難した友人の知り合い、宮崎の自然学校の方たちがすでに駆けつけ炊き出しを行い温かいご飯があり、冷蔵庫に残った肉まで焼かれてありました。災害支援の技術を持つ人たちでした。水を運び、テントを立て、薪、ハガマを設置しご飯の炊き方を見せ、そしてまた宮崎に戻りまた明日来るといいます。なんという人がいるものでしょう、完全に励まされました。そして恵佳たちも協力して味噌汁なども用意し、子どもたちを安心させ、子どももご飯を食べていると聞き、避難所にも地震に負けない動きが溢れているのを知り、心からうれしいと思いました。同じ避難所に集まった方の発電機も動き、携帯を充電させて頂きました。余震は続いていましたが、ヘリコプターは飛び続けていましたが、自衛隊、消防、警察、地域の人の行動が負けてはいない、そう感じさせるものでした。
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