2020年6月30日火曜日
梅雨、阿蘇も雨が降っています。
今年も強い風、強い雨。いまのところまだまだ序の口かな、地域のひともまだまだこれから、という気分です。
それでも野菜には厳しい季節。レタス、カリフラワー、などは乾燥で生育が遅れていた中で、雨に打たれ、湿気と高温であえなく終了です。
ズッキーニも半分ほどは風邪で折れてしまいました。例年の半分ほどの収量。それでもなんとか畑の野菜でパックをお届けします。そのような厳しさを微塵も感じさせない、そんな野菜パックが理想かもしれませんが、なかなかそうはいきません。野菜のバトンリレーで言えば、息も絶え絶え、ようやく、夏の野菜の姿が見えてきたところ。キュウリ、ミニトマト、ピーマン。バトンが無事につながるでしょうか。
楽しみにお待ちください。
ネット無しの圃場のグリーンボールも一足遅れで結球しました。少し小ぶりですが、初期の虫に食べられてレース状になった状態から、この梅雨の雨の間に、虫も勢いを弱めたのか、キャベツの勢いが勝りました。
うれしい結球です。
明日からは七月。元気に行きましょう。時間の感覚があいまいです。農家がこれではいけませんね。
2020年6月21日日曜日
午後、子どものミュージカル活動の練習の送迎で、高森町のフォークスクールに行きました。待ち時間に隣の敷地で「おてんとさん」の人々が農作業。種を分けてもらいました。
あかまめ。もう40年以上育て続けた種だよー、と分けてもらって、育てる人少なくなってるから、頼むよ。と。
なかなか種採りはむずかしい、育てて食べて、一つの農作業として、日課になって、繰り返していく。自信はないけれど、今年は挑戦。
「どんな風に蒔くんですか?
カキの葉に、三つぶ、くるむころまくといいよ。そう習ったよ。少し肥料と石灰。」
さっそく家に戻って、カキの葉に包んでみる。カキの若葉にあか豆がみっつ、くるっと包める頃。長陽では少し遅いかな。カキの葉がもう、写真のように大きい。
でもきっと大丈夫だろう、今年は種どりを目指してやってみよう。
今日の熊本日日新聞。
熊本の新型コロナ感染症のいわゆる感染者の方の体験談、読み応えありました。
感染症の情報は数値、データが当然重視される。疫学的な対策はそのようなデータを基に行動を抑制し、医療資源を効率よく配置するようなもの。それはそれでふつうに期待します。
一方で、医学的な症例や数値的な情報ではないもの、それぞれの具体的な体験を、たとえば今回の記事を通してでも知ることができるのは、身に迫るようで、現実感あり。
数字の中に、その時々の戸惑い、判断、感情、経済、社会、人としてのいろんなものがあると再確認しました。
そして、今日は地区の入会地の共同作業。
野焼きのための準備、輪地切りがありましたが、久しぶりにたくさんのひとと声を掛け合って、ほんと楽しかった。「コロナどうー」「だるいねー」「ぼちぼちだねー」って笑えるから。
2020年6月20日土曜日
2020年6月18日木曜日
自家用の小松菜のリクエストがあったので、畑の小松菜を。
この小松菜は、コロナ騒ぎのなかで、三密やさい、として試験栽培、露地栽培したものです。
普通無農薬栽培では、防虫ネットを使用します。虫との接触機会を削減するためです。かび、ウイルスなどとの接触を避けるためにハウスで、水耕栽培、ビニールマルチを使い、微生物、かび、ウイルスの温床そのものの、土壌との接触を避ける栽培法もあるでしょう。
そこらへんもテキトウに、とにかく露地栽培。濃厚接触歓迎の無農薬。
見事に虫に食われています。それでもモザイク病などのウイルスにはいまのところやられていません。
農業は、それ自体が「新しい生活様式」の連続です。農耕は、人間の歴史300万年のなかで、わずか1万5000年前に発見された、新しい生活様式です。新しい生産様式か。品種、栽培方法、などは人間の生活と密着し、味、形、色、規格、輸送性、インスタ映え、経済、物語性、さまざまな人間の生活からの要請をうけて、食料が生産され、野菜はつくられ、育てられています。そのなかで有機栽培は、いわゆる慣行栽培と、実はふたごのような、新しい生産様式です。
一方で野菜は、植物として自然、野生との境界にあるわけで、土壌、気象、季節などと結びついています。 ここにはまだまだ、未知の部分がある、これは確かで、へんな言い方ですが、わからないところ、未知のものーが確かにある。そこが面白く、いろいろな生活、文化の源になっているのではないかと思います。
新型コロナウイルスについて、その本体はほとんど未知、ほとんどということはないか、まだまだ分からない。ただ、「経験的に」いろいろなことがわかってきて、日々更新されています。検査にしろ、医療にしろ、対処的に、経験的に、そのような性質を浮かび上がらせる、そのような症状だと観察できる、のだと思います。科学の網の目をかぶせてもなかなか本性を見せない、弱くてやっかいなコロナウイルス。ウイルスの性質だと思い込んでいるものの多くが、それを認識する社会の性質だったり、医療の仕組みだったり、そこから照らされる自分たちの行動、のようにも思えます。
ウイルスと社会に、特に過剰な恐怖心、監視社会、無邪気さ、というか事なかれ主義か、に警戒しつつ、しぶとーく自分の生活を続ける、これしかないのでは。
追記。
事後的、経験的でいいから、新しい事実、経験をたよりに、行動したいということです。
未知や、わからなさ、に留まる理由はないのですから。
雨が降り出し、きょうの午後、夜、明日の朝、強く降るそうです。
昨日は「おてんとさん」の子どもたちと畑。キュウリ、かぼちゃ、サツマイモを植えました。賑やかでした。自分は自分の畑に、ニンジンや、かぼちゃ、ごぼう、オクラの種を蒔きました。雨の前は何かと忙しくなるモンです。
今日は一転静かな雨。それでも畑にはきのうの余韻、が残ってます。
畑の畦にねむの木があって、うちの子たちが小さいときにつくったブランコがあって、雨の中ブランコに近づいてみると、小さな長靴が、わすれもの。
はだしで遊んだんでしょう、、、少し雨に濡れてしまいましたが回収しました。
よくあることのような、誰かのわすれものひろってうれしいような、 さびしいような、出来事です。小さな子を育てているときには、しょっちゅうこんなことがあった気がします。おてんとさんの子どもたちがきた後には、何かしらわすれものがあって、小さな軍手だったり、帽子だったり、靴。くつが一番多いかな。
それ以上に、きょうのような少し静かな畑には、わすれもののような、余韻のような、忙しいきのうの作業の熱気、疲れ、のようなものが残ることがあります。畑の土に残った足跡をあらためてみたり、畝の曲がりに気づいたり、笑い声や泣き声を思い出したりします。これはなんでしょう。残響。きっと、覚醒しているとき、仕事をしているとき、必死なとき、とはちがう脳の状態があって、疲れて、ただ畑にいるときには、そういう畑に集積した今までの記憶が、無秩序に脳に浮かんでくるのでしょう。そういうときに、そうだねむの木のほうへ、誘われて、ブランコの近くに足を運び、そこに履き忘れた、小さな子の長靴を発見するのでしょう。探すわけでもないのに。長靴に呼ばれて。
もうすぐねむの木の花も咲きそう。
まだ雨が小ぶりなうちに収穫です。無事にお届けできるでしょうか。
2020年6月14日日曜日
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