2021年9月29日水曜日


九月尽オクラは暦のように立ち

ファラオにも捧げたくなるオクラかな








 

2021年9月28日火曜日


 

「食物連鎖の根本!」 中村浩 『高校生のための文章読本』から

中村浩(1910ー1980)

日本クロレラ研究所所長

著書多数

  • 『くそ馬鹿 糞尿博士世界を行く』白鳳社 1962年
  • 『動物の性生活 動物千夜一夜』共栄書房 1969年
  • 『雲古瞑想録』ハマ美術 1979年
  • 人間として 7号(1971年9月)(筑摩書房)に「ユートピア革命に関する覚書 -"豹変革命党" 運動綱領-」
  • 『恐るべき飢餓』編著 みすず書房1953年
  • 『資源と人間 発見・略奪・未来』社会思想社 現代教養文庫 1972年

2021年9月27日月曜日

2021年9月26日日曜日


 今日は原野の草刈り。輪地切りです。


地区の区役なので全世帯参加。


赤牛が放牧されています。



葛のかづらが深い。早速体力消耗。




輪地切りとは地区の原野、採草地を野焼きするために、この季節に防火帯を作る作業です。道路や、隣接する林が野焼きの炎が燃え広がらないようにします。草の生長が止まるこの季節に行います。



刃が何枚もいる。



 原野は集落と森の間にあり、入会地として共同利用されてきました。原野の草は牛の餌、茅葺き屋根の材料、畑の肥料、堆肥として利用されてきました。現在では一部が放牧地として利用されていますが、昔ほど利用されていません。場所によっては植林されたり、メガソーラーの発電所として利用され年々面積が減っているようです。

 原野はかつては貴重な資源、エネルギーの生成場所、多様な生物の生存する場所でした。集落が主に人間の暮らしの場とすれば、原野は人間と野生の共有の場、緩衝地帯、人間と野生の接点です。単なる接点ではなくて、そこには資源、エネルギーの生産があり、人間、微生物、植物、動物の共生の場です。

 共同体を空間として有機体に見立てると、もしかしたら原野は内臓、腸のような場所かもしれません。えんえんと続き、なだらかに、細やかな繊毛絨毛のような多様な植物が育ち、風になびき、そこでは薬草も生え、昆虫が鳴き、動物が住み、それらの活動によって人間の生活の資源が生産されます。野生と集落の緩衝地帯として様々な危険から、人間を守りもします。

 人間は有機的な個体として存在しますが、数億、数兆の腸内の細菌、微生物群と共生しています。その多くは内臓フローラとして腸に住んでいます。そして日々、人間同士、人間と環境の中でそれらのウイルス、細菌、ガス、息、声、を交換しています。その活動が人間の免疫力と密接な関係にあることが知られています。

 それと同じことが原野で多様な生物の間で営まれてきた。そこに人間の生活が結びつき、千年の単位で人間と自然の共同の営みとして営まれてきました。人間の社会も数億、数兆の多様な生き物の活動と密接に、強く結びついて営まれてきたのだと思います。

 今はその営みも縮小傾向です。できることなら皆、この営みを続けたい、新しい形で残したい。今日のような共同作業をすると、地域の人のそんな願いを全身で感じます。

 人間の健康で言うならば、今日のような共同活動は、決して何かの病気の特効薬のような「武器」、「切り札」ではありません。原野は直接はお金になりません。集落にとっては生活の資源、エネルギー源、共同作業の場。全体として生活を支える、守りの場です。人でいう免疫力かも知れません。直接役には立たないように見えるけれど、こんなに広く気持ちのいい場所は他にはありません。誰のものでもない、人間だけのものでもない、みんなの場所はどこにもありません。原野、野焼きは体力の続く限り、多くの人、生き物、自然とともに、維持していきたいと思います。




 





夜明け前の月暈。

2021年9月25日土曜日


 月光とオリオン


 昨日の続き、

役人はいつだって言う。「おまえら、こんなところに隠れて何をしているのだ。」と問いつめる。

 自分はその言葉を自分に向けて言ってみる。

 「コロナなのに何してるんだ、、、」


 ぼくは生きている、タネをまいている。おしゃべりをしている。疲れたら休んでいる!



 自分の中に隠れている人としての自分。それが大切なのだと思う。情報の洪水の中で隠れるように生きている、隠れてるんじゃない、大切にしている、それぞれの自分を大切にして行こう。
 いや違う。大切にするものではないな。宿されているのだと思う。役人からみれば「隠れている」ように見えるコソコソしているように見えるものは、実体は、宿されているものなのでは。そこがたとえ納屋でも、御殿でも、ワンルームでも。その人の中に宿されてあるその人の人間性なのではないか。
 だから、人として「羊や鶏」と対等に生活できる、そう思えるだろう。

 素晴らしい実体でなくてもいいから、役人から怒られるくらいの元気がないと、面白くないな。

2021年9月23日木曜日


 春菊とツユクサの争い。


 玉ねぎの育苗はひと月半かかります。


もうそろそろ終わりです。

ピーマンを割れば微かな夏のかぜ













 安岡章太郎 「終末の言葉」 『高校生のための批評入門』より


以下は「終末の言葉」の最後の段落の引用。

 「チェリノブイリの事故のニュースで一つだけ感動したものがある。事故のあと、ソ連政府はチェリノブイリ周辺の住民に立ち退きを命じ、全員を遠くの安全地帯に退避させた。ところがそれから一月もたって、事故地域のある農村で、七十五歳と八十四歳の老婆が二人、納屋に隠れているのが発見された。役人が、「おまえら、こんなところに隠れて何をしているんだ。」と、問いつめると、老婆たちはこもごも、「村のもんがいなくなっちまった。わしらでも残っていないと、置いていかれた羊や鶏の面倒を、いったいだれが見るだね。」と、こたえたというのである。老婆たちが立ち退きを拒んだ理由は、本当のところ何であったか、私は知らない。ただ、置き去りになった羊や鶏の面倒をだれが見るか、という一言に私は、何か震撼させられる想いがしたのである。」

以上

 メニエル病の持病があり、「差し当たり目まいの発作が心配」な作家が終末を憂う。その作家を震撼させる一言。全文は今から35年前の夕刊に掲載された短い文章だけれど、自分は、この文章の中には少なくとも3つの言葉があると思う。状況を伝える淡々とした言葉、老婆たちの短い言葉、そして作家の「震撼させられる」という一言。

 自分たちはチェリノブイリの原発事故とは違った災禍の中にいる。それでもこの文章に共感し、かつその言葉に現在を思うのは、この3つの言葉のバランスがいまの自分に必要だと感じたから。

 コロナの流行は同時に情報の氾濫でもありそのせいで日常が麻痺している。大量の情報に均一化され制御されつつある日常は場合によってはコロナ以上に健康に悪い。自分自身もそのような状況で何かすがるような言葉を探し、また、情報の流れに飛び込んでしまう。今回、スマホが自壊したことで、情報に溺れている自分に気づくことができた。運がよかった。

 そして、今は、作家の文章にある老婆はもしかしたらいたるところにいるのではないかと思う。
 それはあらゆる人の中にいるのではないかと思う。その人の自分の中にいるのではないかと思う。スマホの中にはいない。
 
 役人はいつだって言う。「おまえら、こんなところに隠れて何をしているのだ。」と問いつめる。

 自分はその言葉を自分に向けて言ってみる。

 「コロナなのに何してるんだ、」


 ぼくは生きている、タネをまいている。おしゃべりをしている。疲れたら休んでいる!



 自分の中に隠れている人としての自分。それが大切なのだと思う。情報の洪水の中で隠れるように生きている、隠れてるんじゃない、大切にしている、それぞれの自分を大切にして行こう。

 9/25 追記 
 いや違う。大切にするってことではない。宿されているのだと思う。役人からみれば「隠れている」ように見えるコソコソしているように見えるものは、実体は、宿されているものなのでは。そこがたとえ納屋でも、御殿でも、ワンルームでも。その人の中に宿されてあるその人の人間性なのではないか。
 だから、人として「羊や鶏」とともに生活できるのではないかなと思う。

 素晴らしい実体でなくとも、役人から怒られるくらいの実体がないと、面白くないな。
 
 








 

2021年9月20日月曜日


 高校時代の愛読書をまた買った。愛読書といっても読書家ではなかったので、なんとなく読んでいた思い出の本。
 この本は「高校生のための批評入門」。高校の現代文の副読本として配られて、授業では一回も使われなかった本。アンソロジー形式なので、なんとなく読むのにちょうどよかった。
 その頃犬の散歩の時に持ち出して、家の近くの公園のおきまりのベンチまで来ると、犬をつなぎ、ベンチに座って読んだ。この本と同じシリーズ「高校生のための文章読本」2冊を代わる代わる読んだ。いつの間にかこの本はお気に入りになって、それぞれ4、5ページくらいの短い文章なので結果繰り返し繰り返し読んだ。

 今読んでも面白い。少しラインナップが時代ではあるけれど、今でも何度でも読めると思う。
 実は高校2年の長女にあげようと買った本だった。「これどう?」と見せると、「何。なんなの」と少し睨まれたので、無理に推さず、また自分の元に置いた。

 今日、畑の後に犬を連れてお決まりの川に行き、工事現場の土管に座って読んで見た。

「隠喩としての病」、ソンタグ。「貧困の現代化」、イリッチ。「内臓とこころ」、三木茂夫。「手が考えて作る」、秋岡芳夫。今も何度読んでもいい。

 犬の散歩に持っていき、同じ本を読んでいる。
 期せず30年経っても、全く同じ行動をする。不思議な気持ちになる。まるで自分の隣にもう一人の自分がいるような。あの頃の自分の隣に今の自分がいたような、不思議な気持ち。