2021年9月23日木曜日


 春菊とツユクサの争い。


 玉ねぎの育苗はひと月半かかります。


もうそろそろ終わりです。

ピーマンを割れば微かな夏のかぜ













 安岡章太郎 「終末の言葉」 『高校生のための批評入門』より


以下は「終末の言葉」の最後の段落の引用。

 「チェリノブイリの事故のニュースで一つだけ感動したものがある。事故のあと、ソ連政府はチェリノブイリ周辺の住民に立ち退きを命じ、全員を遠くの安全地帯に退避させた。ところがそれから一月もたって、事故地域のある農村で、七十五歳と八十四歳の老婆が二人、納屋に隠れているのが発見された。役人が、「おまえら、こんなところに隠れて何をしているんだ。」と、問いつめると、老婆たちはこもごも、「村のもんがいなくなっちまった。わしらでも残っていないと、置いていかれた羊や鶏の面倒を、いったいだれが見るだね。」と、こたえたというのである。老婆たちが立ち退きを拒んだ理由は、本当のところ何であったか、私は知らない。ただ、置き去りになった羊や鶏の面倒をだれが見るか、という一言に私は、何か震撼させられる想いがしたのである。」

以上

 メニエル病の持病があり、「差し当たり目まいの発作が心配」な作家が終末を憂う。その作家を震撼させる一言。全文は今から35年前の夕刊に掲載された短い文章だけれど、自分は、この文章の中には少なくとも3つの言葉があると思う。状況を伝える淡々とした言葉、老婆たちの短い言葉、そして作家の「震撼させられる」という一言。

 自分たちはチェリノブイリの原発事故とは違った災禍の中にいる。それでもこの文章に共感し、かつその言葉に現在を思うのは、この3つの言葉のバランスがいまの自分に必要だと感じたから。

 コロナの流行は同時に情報の氾濫でもありそのせいで日常が麻痺している。大量の情報に均一化され制御されつつある日常は場合によってはコロナ以上に健康に悪い。自分自身もそのような状況で何かすがるような言葉を探し、また、情報の流れに飛び込んでしまう。今回、スマホが自壊したことで、情報に溺れている自分に気づくことができた。運がよかった。

 そして、今は、作家の文章にある老婆はもしかしたらいたるところにいるのではないかと思う。
 それはあらゆる人の中にいるのではないかと思う。その人の自分の中にいるのではないかと思う。スマホの中にはいない。
 
 役人はいつだって言う。「おまえら、こんなところに隠れて何をしているのだ。」と問いつめる。

 自分はその言葉を自分に向けて言ってみる。

 「コロナなのに何してるんだ、」


 ぼくは生きている、タネをまいている。おしゃべりをしている。疲れたら休んでいる!



 自分の中に隠れている人としての自分。それが大切なのだと思う。情報の洪水の中で隠れるように生きている、隠れてるんじゃない、大切にしている、それぞれの自分を大切にして行こう。

 9/25 追記 
 いや違う。大切にするってことではない。宿されているのだと思う。役人からみれば「隠れている」ように見えるコソコソしているように見えるものは、実体は、宿されているものなのでは。そこがたとえ納屋でも、御殿でも、ワンルームでも。その人の中に宿されてあるその人の人間性なのではないか。
 だから、人として「羊や鶏」とともに生活できるのではないかなと思う。

 素晴らしい実体でなくとも、役人から怒られるくらいの実体がないと、面白くないな。
 
 








 

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