2016年12月15日木曜日

阿蘇も雪が降り始めました。市内に向かう道は峠越えの道、通行規制が始まりました。俵山トンネルのバイパス通行開始は24日だそうです。通勤や通学、みな神経をすり減らしながらの道行きです。安全第一で。

 先日、自閉症の詩人で作家の東田直樹氏のテレビがありました。興味深く見ました。東田氏、自閉症の子を持つアイルランドの作家、ガンを患ったテレビディレクター。東田氏の認知症の祖母。登場する人の関係性が静かな対話のなかで浮かび上がっているように思いました。そのなかで東田氏とディレクターの会話があり、生きて、子を育てる、そういう命をつなぐことができない、命のバトンをつなげないと自身の不安を伝える若いディレクターの言葉に、東田氏は、人の生はそれぞれに完結する、それを生ききる、と自分の思いをはっきりと告げる場面が特に印象的でした。東田氏は個の生、自分という命、にとっては自閉症という個性すら根源的には意味のないものと考えているように思いました。確かに、個性の尊重といわれることがありますが、個性とはそうでないものが付ける印に過ぎないと思うことがあります。性格やクセ、顔や身体の見かけの違い、多くの個性とは何かを何かと区別するための印のように思います。それに比べて、東田氏のいう個の生、とは自分とは分けることのできない、印を付けることのできないこの自分という塊のようなものかもしれません。それぞれに完結しているといいます。個性とは次元の違うもののように思います。
 誰もがそのような個の生と、もう一方で社会のなかに含まれる個人や個性、人間の関係性、などの二つの次元を行き来して生活しているのかもしれません。そのなかで東田氏はそれぞれの生は完結している、そしてそれを生ききる、という、さらに個の生を完結させなくてはいけない、といったようにいま記憶しています。その言葉はたいへん重い言葉だと思います。番組の中では東田氏もまた登場する一人ひとりと、また認知症の祖母との間の交わりの中で戸惑い、思考している姿が映されます。番組を通してそのように思い悩み、揺れ動き、言葉を交わす、そういう人間の姿を見ていました。ボクにとって生ききらねばならないボク自身の生とはなんでしょう、みなさまはどのように考えたのでしょうか。

2 件のコメント:

  1. Kotaさんこんにちは Facebookで素晴らしい阿蘇の画像を見るのが楽しみです。
    東田さんの番組私も見て誰かと語りたくなったのでこの場をお借りしたく投稿しています。

    自閉症という色眼鏡で自分を見てほしくないという思いと、
    表現できる自閉症者として周りが期待する自分の役割との葛藤が切なくなりました。
    「なぜ自分は生きているのか」という問いは地球の生物の中で恐らく人間だけが持っていて、
    それを突き付けられる社会は窮屈だと思います。
    でもその答えを見出した時に人は大きく成長するんでしょうね。

    私自身は、成長など自分も含め誰からも期待されずに、欲を捨てて、「生まれてたから生きている」というスタンスで生きていければ幸せなのになあ、と思っています。

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    1. みかさん、ほんとうに生きていくことのいろいろなことが番組を観てかんじました、みんなといること、ひとりでいること、そして人間だけではない命の不思議、いろいろボクも感じました。「生まれてたから生きている」ほんとうに自然体な言葉で、すてきですね。そのなかに孤独や等身大の力づよさも感じます。大きな勇気ではない、少しの勇気でいろいろ世界が変わりますね。それではまた。

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