2025年10月13日月曜日

 たのくろ農法とは、


 勝手なものの物語

 勝手とはいわゆる身勝手、ワガママではない。畦の草が勝手に生えてくる、畔に勝手に生きものが集まる、という勝手とは、自ずから、という姿である。その意味で、いのちは勝手である。自ずから生まれ、死んでいく。これが一番身近なエネルギーだ。人間はそのいのちを型にはめながら世界を作る。親子、社会、経済、宗教、自然、農業もそういう型である。

 勝手と言われてなんだかビビるような人は、もうこの先を読まないほうがいい。自分の日常に戻って、自分のすることをしてほしい。人が勝手に何かをすることを止めるような人は、立派な社会の一員として頑張ってほしい。

 では続き、なぜ勝手に動くことが必要か。それはまず、命が勝手だから。そして勝手にやることが楽しいから。社会は勝手を嫌うが、それはそういうもの。社会とそれぞれは自由に向き合うほうがいい。社会のいいなりになってばかりいると、それはもう部品のようになって、エネルギーを生まないただの物体になる。社会の大きなエネルギーは個々が対抗することで、実はより活性化する。大きなエネルギー、社会のためにも、個々は勝手に振る舞うのがいい。社会は常に抑圧的になる。鈍感な部品化したいのちは気がつかないかもしれないが、社会は、周縁において抑圧的になる。周縁に集まるいのちは、その周縁におけるエネルギーを小さな自発的なエネルギーに変えることで、結果的に社会を活性化することができる。その小さなエネルギーは社会の一員として社会から与えられたものではなくて、その周縁において個々の内側から、勝手に湧いてくるものでないとならない。

 つづく


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