2015年9月19日土曜日

『アステカ王国の生贄の祭祀』を読みながら。


  読書。『アステカ王国の生贄の祭祀』を読みながら、野弧禅などを聴いていたが思い出して、『七人の侍』の低く暗いテーマ曲を頭のなかで聴いている。
 メソアメリカの戦国時代、14世紀からわずか二百年の間に花開き世界史から姿を消したアステカ王国。本書はその瞬きを、その宗教的宇宙の全体を描き出そうとする試みだ。人類学、考古学、歴史学、図像学の豊富な資料さらに宗教学の理論的展開は学術書の難解さを備えている。しかし、ボクがこの本から感じ得たのはそれ以上の豊富な意味であり、そして最後にまた言うと思うが、切実さだ。
 詩であれ、小説であれ、何であれ、文字、単語の列に過ぎない本のなかから沸き立つイメージ。その立ち上がってくる意味の、問いの、深さ、切実さ。それは踏み固められた道のようでもあるし、その中を歩く、投げ出された荒野のようでもある。本を読むということ、それは体験だ。いまや読書は現代人にとってはもっとも身近で、ある意味もっとも原始的な体験になった。著者の通った道を、旅を、ふたたび、歩くのである。


 ボクはこの本を、歩く。
 生き生きと生きたい、と願いながら日々の生活を送る。意識的にも、無意識的にも人は意味を求める。アステカの祭り、テノチティトランの18の祭祀は興味深い。その祭祀の名前一つ一つが想像力を掻きたてる。豊かだ。
 ボクは阿蘇で農業を営むが、農業でも同じだ。冬から春へ、景色は一変する。阿蘇の野山を焼き払い、新しい命、芽吹きを祝う。野焼きは雄大だ。そしてそれは阿蘇神社においては火振り神事となり婚礼の祭祀として重要な年中行事となっている。稲作の始まりには種籾を湧き水につけ、農家それぞれの農事暦に従い苗床に蒔かれる。水路に水が流れ、畦を塗り、水を張る。代をあける。農作業の一つ一つは小さな神話のようだ。田植え上がりにはさなぶりがあり、お神輿を担ぎ、神さまと宴をともにする。阿蘇の農耕儀礼のなかには風から作物を守る風鎮祭、霜宮に少女が篭り、59日間火をたき続ける霜除け祈願の火焚き神事などもある。秋には地域で宮祭りが行われる。神様の前で子どもたちは相撲をとる。昔からそうであり、観光になりながら、そして野焼き作業や祭りの存続が危ぶまれても、いまだにそう。

心のどこかに祭りを求めているのだと思う。
 アステカの人々の宇宙について、著者は言う。

 それは、地上に生きる人間・動物・植物と、天空を動く太陽・月・星、そして大地は、同じ血液を分け合う一つの巨大な生命体の一部だということであろう。(p93)

 はるか地球の反対側の人間にとっても、世界とは「宇宙とは決して無機質な部品が組み合わされた《機械》ではない。この巨大な生命体」である宇宙は「身体の隅々にまで赤い血液をいきわたらせる、一つの《大いなる生命体》」だという。人の住む世界とは世界中において、時代を超えてそうなのだ。反対に言えば、生きている世界の中でしか、今も昔も、人は生きられないのだ。



 アステカという都市国家においてはその戦国時代、戦士集団としての宗教的実存が、その宗教形態において供儀、生贄、戦闘として発展していく。果たして、戦士とは。
 アステカの宗教世界がボクにとって特異なものに見えるのは、その宗教世界全体を彩る、赤い血に他ならない。《大いなる生命体》としてのアステカの宇宙は供儀、生贄、戦闘などを通じて絶えず神話から、宇宙からエネルギー、「血液」を受け取り、循環させている。アステカをはじめメソアメリカの宗教世界において農耕もまた一つの基盤であった。現に本書でも、血に満たされたトウモロコシ、大地から蛇とともに飛び出してくるトウモロコシ、豊かな農耕文化を見た。神々、トラロク、コアトリクエの宗教世界を見てきた。しかしそこに来てさらに戦士。果たして。


 現代社会では様々な価値観、情報が共存し、複雑になっている。しかし一方、薄っぺらさ、白々しさ、虚しいまでの日常が日々を覆っている。農村においても、都市においても、経済活動が主役になり、せわしい。分断された個人は変化することを許されず、戸籍、名前。固定される。個人、個性の個はいまや固定の固だ。イニシエーション、メタモルフォーゼ、あらゆる変化は消えゆき、やがてすぐに社会は異質なものを排除し、遠ざける。たとえば死、たとえば病気、たとえば戦争。そして身体、肉体。アステカは地理的、歴史的には遠い、でもそれは《大いなる生命体》

として人間の住むさまざまなな宗教世界と重なる。そしてしかし戦士。その肉体は舞い上がり、躍動し、咲き乱れる、群舞する。戦士は遠いのか、まだ遠いのか。しかしそれは私たちの日常が、様々なものを固定させ、均質化し、白々しく明るくし、私たちはそのなかで、にこやかに薄ら笑みを浮かべているからではないだろうか。それはやがて著者の言う「化石」なのだ。ボクは現代というときのなかで、化石になっていたのだ。肉体を取り戻す。その躍動。その緊張。自分のものにできた肉体、身体こそ、アステカ人にとって、はじめて神にささげるのにふさわしいものとなるのではないだろうか。自分のものであるからこそ、捧げる、宇宙の一部となる。その逆説。現代の、まさにボクたちの対極として、いまアステカの戦士が立ち上がっている、ウィツィロポチトリが、テスカトリポカが。

 まあそう、熱くなるなよ、…出てきた、『七人の侍』だ、菊千代が言う。お前、百姓じゃないか。
 菊千代は映画『七人の侍』の魂である。どこから来たのか、誰なのか、自らを菊千代と名乗り、怒り、笑い、泣き、叫び、果てる。野武士に襲撃された村で、親を失い、ふるさとを失いただ立ち尽くすひとりの幼子を抱きしめ、「こいつは俺だ」と叫ぶ。誰でもないがゆえに魂を叫ぶことのできる者がいる。武士でもない、百姓でもない、菊千代でさえもないがゆえに菊千代は戦い、愛される。
 菊千代は戦った、アステカの戦士も戦う。そしていまボクは戦わない、耕す。戦国時代とは何だろう。都市国家とは何だろう。農耕文化とは何だろう。話は逸れていくが、ボクたちは大きな神話の一部なのだろうか。それは時空を越えて幾重にも重なる神話なのだろうか。
 著者は宗教学者としての個人から、孤になった。固定された個人を超えて、孤独のなかへ向かった。宗教学とはそういうものだろう。誰でもないものになったのだろう。そのときボクは著者、書き手を通して、本を通して出会う。そして言う。
 そうだ、ボクは言う。百姓、農家もまた現実世界の只中で自分の肉体を信じるものだ

自分の身体、自分の畑こそ世界の中心であり、植物を観察し、繰り返される命の生と死を、その入れ替わりの連続を見届ける。農業にとって観察とは野生の形態学だ。著者の言うアルケオローだ。農村において村はあるが、村は無い。自然はあるが自然は無い。そのなかで故郷喪失者であるボクもまたボクを生きる。季節は同じだが、命はちがう、今年もトマト、去年もトマト、トマトは同じだが、その命はちがう。自分の体の細胞が数ヶ月ですべて入れ替わるのと同じように、命もまた入れ替わっているのだ。毎年繰り返される農作業、農耕祭事、繰り返すがゆえに入れ替わる、それが農業だ。やがてボクの肉体も変わるだろう。入れ替わりながら生きつづける。変な言い方になるが、そのなかでボクはボクの肉体が農家らしくなることを、確かめたいのだ。


 まだ本書を読み続けている。話はあちこちに行きそうになるが、本書に戻ろう、いやもう本に戻ろう。本とはいいものだ。手にとれるものとしての確かさがある。『アステカ王国の生贄の祭祀』。著者は宗教学者として本書を書いた。アステカの戦士に、自分を重ねながら。その道行きを、その体験を、読むことができた。阿蘇にいながら、気ままに。読者の特権だ。一冊の書物が生まれた。ボクとしてはナワトル語の古代詩が好きだ。特に詩的言語の解釈について、期待がふくらむ。クエポニ、面白い響き。いつかどういう場面かどういう状況かわからないが、その響きが聞こえてくるかもしれない。本書を通していくつもの輪が重なり、その詩的言語を媒介に、アステカの戦士に近づくことができた。いまは一瞬ではあるが、ボクにも神々の笑い声が聞こえた気がしている。




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5 件のコメント:

  1. 素晴らしい考察力と説明力と想像力と表現力です!僕も作ること食べること見ること読むこと何でもかんでも五感から得られるもの全てが自分の血肉へ代を変えて下さるものだと信じています。僕も読書好きです。音楽が好きです。ロックが大好きです。読み終えたら是非とも貸してください(笑)あかみずの店長らしき読書中毒中年野郎より。

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  2. あかみずの店長らしき読書中毒中年野郎です。我慢出来ずにAmazonで購入しました(笑)僕こそ読感してから誰かへとお貸しします。いつか美味しいレイザンの熱燗を片手に読書感想会をやりましょうm(_ _)m

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  3. もう、ロック店長のせっかち、我慢できないのですね!購入ありがとうございます。みんなに広めていきましょう!

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  4.  写真からその文明の残照が観えるのは、同じ血が応じているのでしょうか...。

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  5. アーチさんはたしかメキシコに行ったことがありましたね。村の風景のなかに、いろんなものが潜んでいると思うと面白いです。

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