2016年5月11日水曜日

 メモ代わり、最初のころの話、備忘録ですので記憶違いもある。転載不可。

   16日の地震は激震でした。殴られたような揺れ、枕もとの小さな電池式の読書灯で家族の命を確認し、家を出たボクは同じように路地に出された近所隣人と皆の安否を確認、話をし、避難、避難と言う言葉を繰り返しました。公民館のある駅前に移動するため最低の避難用具(携帯、着替え、靴、毛布、そして子どもには大すきなものを一つ持たせ、ウォークマンやマンガ、ボクはカメラ)のみで車に乗り込み、二匹の犬を乗せました。ボクは軽トラ、恵佳が自家用車を運転。停電の暗闇、混雑し始めた駅前の駐車場はヘッドライト、懐中電灯、人々の怯え、不安げなささやきで充満していました。経験したことの無い大変な地震、何をすればいいのか、これから何が起こるのか、何も考えられないまま「大丈夫だから、みなと一緒に行動」と恵佳に伝え、ボクは消防団の一員として消防に合流しました。
 消防ではまず手動でシャッターを開け積載車を広場に出し、駅前に集まった地域住民の名前、人数を確認しながら、一人暮らし、高齢者の住宅を手分けして周り、確認。ヘッドライトのみで近隣家屋や道路、被害の状況を探りました。余震が続き、暗闇のなか、揺れる電線を眺めました。消防団の中に地域の老人ホーム、高齢者施設の職員がおり、2、3人の団員と一緒にボクは施設に向かいました。道路はひび割れ、大きな石が転がりそれらを慎重に避けながらホームに入り、施設職員と合流、ガラスなどが割れるなか、ベット、車椅子を押し、背負い、利用者の方々を安全な場所に誘導しました。駅前に戻ると西側上空にヘリコプターが来ており、空中で停止しており、まさに自分たちの地域に大変なことが起こっているのだと震えました。地震直後は携帯の通話が可能で、遠く離れた母親の電話に家族で無事、避難している心配なしと連絡、ラジオに耳を傾ける余裕も無く、何が起こっているのだろう、不安な気持ちで夜明けを待っていました。
 大橋が落ちたらしいぞ、それは衝撃の情報でした。阿蘇大橋は南阿蘇の玄関のような場所、ここにいる全員誰もが通る道、それ以上に生活に仕事に無くてはならない無いことが想像できない橋で道でした。ウソだろう。落ちたのではなく、通れないだけだろう。阿蘇大橋ではなく、その下にかかる長陽大橋だろう。情報は錯綜し信じられませんでした。しかし「俺は見た、橋がなかった」地震後、必死で職場の養豚農場に向かおうとした消防団員が言いました。「道は波うち、橋がない、橋だけでなく橋のあたりが何もない、大津には行けない」そこにいる皆が静まり返りました。やばすぎる、ボクたちは孤立を現実に感じ始めました。
 事態はまだ混乱していました。隣人知人の確認、車のラジオなど聴くもの、暗闇のなかヘリコプターを見あげるもの。満員の駅前広場に、ある男性が助けを求めていました。宿にお客が埋まっているかもしれない、助けに行ってもらえないか。消防に詰めるように助けを求める男性に、今は無理だ、行けない。それが限界でした。車のライトに浮かぶ人影があるものは忙しく、あるものはただ立ち尽くし、もう少し、いよいよ明るくなるばい、明るくなったらおおごとになるばい、と誰かがつぶやきます。夜明けが近づいていました。
 夜が明ける。薄明かり呆然としながら、ボクは、避難した駅前から歩いて家に向かっていました。屋根が心配で瓦が心配でした。おそらく近所でもいちばん小さな簡素なつくりの我家はいちばん被害が大きいだろう。最悪を確認するために。そう思っていました。が不思議に屋根も壁も、柱も無事でした。ガラスも割れずにいつものように家は立っていました。大丈夫、なのか。もしかしたら、地震が終われば家に戻れる。そう思いました。ボクは服を急いで消防の作業服に着替え、靴を安全靴に履き替えました。明け方、消防詰め所で手に入れた500mlのお茶一本を車の中にいる家族に渡す。空腹感は無かったですが、のどは渇いていました。生きていく、そういう活動が始まろうとしていました。水は大丈夫だろうか。明るくなっていく視界のなかで、今日はボクは新聞が配れない、十年以上続けている新聞配達も今日は、休みだ、それは確実にわかりました。
 消防は一旦別れ、数時間後の集合を確認し、各自家の確認、家族と避難所へ向かう準備を始めました。そして畑、田んぼ、苗に水をあげなくてはいけない、それが次のボクの行動でした。



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