2016年5月11日水曜日

メモ、備忘録です。


忘れないように書いています。


  明るくなり、恵佳と子どもたちは元役場に向かいました。ボクは畑に向かいながら周囲を観察すると、自分の行動範囲は、思いのほか瓦などが無事だ、と感じました。明るくなり少し安心したのかもしれません。余震が続いており、上空のヘリコプターは増えていました。
畑に来るといつもどおりの感じでしたが、貯めておいた灌水用のタンクが倒れ、その中に残った僅かな水をじょうろで苗にかけました。苗に水をあげている場合 なのか不安でした。これで一日は野菜が大丈夫、そう思いました。その次、ぽっこわぱに向かう道から川を見ると思わず、息が詰まりました。真っ黒な水が、泥 が、あふれんばかりの量、不気味さで下っていました。一瞬ひるみ、立ち止まりましたが、急いでぽっこわぱに向かいました。
  ぽっこの仲間は無事で、母屋の瓦が少し崩れていましたが、皆の表情に不思議な明るさがありました。ボクはその表情でまた少し落ち着きを取り戻したと思いま す。みんな大丈夫?、はい、大丈夫です。大丈夫でしたか、もちろん。互いに短い無事の報告を済ませ、「裏の川が、どうなっていますか」、「うーん、問題で す」。川を確認に行きました。川の上手から見ると自分の借りている畑を黒い泥が覆っています。そしてさらに次の畑に迫っていました。畑が終わっているのは 明らかでした。そしてあふれるほどに流れ、恐ろしいほど黒い泥流、つまり土石流から、ぽっこの人々は畑の一角にあるポンプ小屋を守ろうとしていました。ポ ンプ小屋は生活水の源でもあり、野菜の灌水の元、貴重な地下水でした。泥流の勢いは増しているように感じました。信じられないことに大木が流れています。 どうなっているのか、これからどうなるのか。いま自分が立っている場所は安全なのか、心配しました。スコップ、くわで、畦を崩します。流れを変えなくては 大切な水を失うことになる、ボクは冷静ではなかったか、冷静すぎたのか、諦めの気持ちも浮かんでいました。一先ず今思えば気休めだったかもしれないです が、畦を切り、わずかばかり流れを変えることができました。ポンプ小屋の救出作戦はさらにぽっこの人々によって、人力でその夕方から夜にかけて遂行されま した。
 恵佳から、避難先を中学校から小学校に変える、と電話が入りました。川の上流で山腹が崩壊、大量の土砂が押し寄せている。そう聞いたと。 そのために同じ子育て世代の友人などとより安全な小学校に行きたい。わかった。電話を切って、やがてボクはそのようになるのかと、地震の後、緊急地震速報の嫌な音を聞 きながら、そう来るのかと思いました。災害とはつぎつぎと危機が迫ってくるのかと感じていました。あらためて阿蘇の山々、外輪山をを見ると数え切れない土砂崩れの後が、今まで無い規模で広 がっていることに気づきました。





小学校にに向かいました。実は避難先をどこにするか、迷いました。安全や子どものことを優先するならば友人のいる小学校。地区の多くの人と行動を一緒にするならば、また、畑や鶏の世話を第一に考えるならば中学校、二つの場所は川によって分断されるかもしれない、そう考えたのです。実際に目の当たりにした土石流の危険を第一に考え小学校に決めました。いざとなったら畑や仕事よりも命だろうと、子どもを守ろうとする母親たちの行動に任せました。家族や友人と合流し、安心することができました。主に母親たちを中心に各家庭から当面の生活に必要な食料、水、日用品代替品、カセットガスや鍋が持ち込まれて、最低限の布団や寝袋も準備されていました。
 恵佳は鶏の最低限の世話をしに行き、ボクは家に戻り当然土足のまま入り、消防は水の確保、待機、見回りだったでしょうか、大変な状況で消防を離れボクひとり家に戻ってみても、倒れた食器棚や、事務用品、ボクが下手に手をつけるとめちゃくちゃになりそうだったので、ただ見ているだけ。余震が不安なので、玄関を開けたまま、普段から片付いていない自分の持ち物を眺めるばかりでした。ただ一つ、テントを探しました。モンベルのテント、これは自分の宝もの、25年以上前のもの。でフレームを昨年修理に出したばかり。今こそ役に立つのではと少し探しましたが、結局見つからず。もう一つのテントをザックに詰め、持ち出しました。どこにも手がつけられず、そんな状態を呆然と言うのでしょうか、ただ片づけが苦手なだけだったのか、意味のない行動になりました。そして避難所であれば便利と思いつき、折りたたみテーブルや布団を運びました。
 避難所に集まった一人ひとりのたくさんの行動のおかげで、ボクは、懐中電灯の明かりの中で暖かいスープ、食事を頂き、子どもや犬たちと車の中で身を横たえることができ、眠りました。


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